2018年10月27日

下町 HERO

プロ野球ドラフト会議が終わった。

その日の昼下がりは予定もなかったので、新潟日報事業社から、初版発行された 「マウンド人生」 を自宅で読んで過ごしていた。
筆者は、昭和50年 (1975) 「広島東洋カープ」 を初優勝に導いたピッチャー 「三輪 悟」の自伝。

新潟市の下町と呼ばれる附船町の長屋で育ち、入舟小学校 → 舟栄中学校 → 市立工業高校 と歩み、ノンプロを経由、西鉄に2位指名を受けたのち、太平洋 → 広島と活躍の場を変えた。
小中では、ボクの先輩格にあたり、年は20歳も上だが、そのうわさはよく耳にしていたし、野球人気が全盛だったので、活躍は地域で語り継がれていた。
その文中 「寄居中、二葉中の上品校と違い、下町のヤンチャが集まる舟栄中は、ケンカの強い猛者が揃っていた」 行を読んで、当時から、海と川にはさまれた 「造船の町」 として、活気があったものの、今では草野球の聖地 「北部グラウンド」 もなくなり、荒くれた雰囲気の面影もすっかりなくなった。

広島が初優勝を決めた年、優勝を大きく左右する天王山をむかえた9月。
新潟遠征となる、ヤクルトとの一戦は超満員で、小学5年生だったボクは鳥屋野球場の三塁ベンチ上、広島側の内野席で観戦した。
いつも、外野の自由席で、グローブを枕に芝生に寝転んで見ていたので、後楽園球場の巨人戦以来、こんなに近くでプロ野球を見るのは2度目の経験。
その頃は、野球のルールをわかっていたので、試合を決める大事な場面やスコアボードまで今も覚えているが、中継ぎの切り札 「三輪投手」 が登板しなかったことは残念だった。
試合はシーソーゲームとなり、記憶が正しければ5−3のスコアで、広島が勝利した。

ボクは野球に憧れながらも、球技は性に合わず、人間相手のスポーツの方が、力を発揮できたタイプ。
当時の子ども社会では、野球ができないと威厳を失う、暗黙のルールがあったから、結局は柔道などの肉体の起爆剤が必要で、闘争本能を満足させる手立てが、ガキ大将の孤独であってさ。

その意味で 「野球で落ちこぼれたガキ」 にすれば、三輪投手は 「下町のヒーロー」 なのだ。
posted by GIG at 00:00| Comment(0) | Diary & Social | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。