2016年08月02日

小よく大を制す

元横綱 「千代の富士」 こと、九重親方が、61歳の若さで死去した。

その偉業たるもの、優勝回数31回、前人未到の53連勝を樹立し、小兵な風貌から 「ウルフ」 とも 「小さな大横綱」 とも呼ばれ、絶大な人気を誇り、91年の引退会見では 「体力の限界、気力も失い、ここで引退を表明する」 と、その引き際は潔かった。

横綱に昇進したのは、82年6月の名古屋場所。
そのころ、ボクは高校2年で、柔道部と町道場の二つに所属しており、相撲は眺めている程度だった。

しかし、高校3年の春季大会では団体戦おろか、個人戦もベスト8止まりで、この日の県大会を最後に公式戦は引退となるが、持て余した体力がありながら、モチベーションがないから、気が抜けてしまう。

だから、部活動にも参加することもなくなり、夏休みに若さを発散させようとするが、やることといえば  アルバイトに明け暮れるか、ひとりでバイクに乗って気晴らしをするか、ロクな遊びを覚えるかくらいで、腰を据えて勉強をするなんて気もなかった。

そんなとき、渡りに船とはこのことである。
わが校、全国大会の出場実績のある相撲部だけは、秋季まで参加できる大会があるにはあるのだが、思春期に人前でまわしをしめて相撲をとるなど、カッコ悪い風潮が強まり、団体戦の人数が揃わない。
それもそのはずで、時代は 「ホットドック」 「ポパイ」 「メンズボーイ」 の時代になりつつある頃だ。 

そうすると、相撲部から柔道部に格好の指名が入り、気がつけば団体優勝を成し遂げ、新潟県代表でインターハイ出場を果たし、かけもち選手 (外人部隊) として、違った形で青春にピリオドを打てた。

ボクの当時の体重は65キロほどで、インターハイの出場者の中でも、最も軽量選手として、地元新聞に参考記事でも取り上げられ、記憶が正しければ、最重量選手は石川県代表の稲葉で220キロだったと思うが、彼は大学相撲に進んだが、心臓に負担がかかり、稽古中に急死したとの報道を目にした。
そのときの大会では、怪童 「久島啓太」 後の、幕内力士 「久島海」 (故人) も高校生横綱として、大旋風を巻き起こしていた、そんな熱い 「82年の夏」 だった。

全国大会の本番では、ぶちかましひとつとっても、体重ごと頭から突っ込んでくるから、怖いのなんの、全国レベルの違いを実戦で見せつけられて、はじめての全敗と予選敗退であった。

それでも、柔道部のボクがここまで勝ち上がれたのには、3つほど理由がある。
1つ目は、相撲は一発勝負だから、必ずしも強いものが勝つとは言い切れない。
相手は、柔道技の奇襲に慣れていなかったことに加えて、ボクのデータを知らなかったこと。
だけど、全国レベルともなると、奇襲は通用しないことは肌身に感じたものだ。

2つ目は、単に対戦相手が弱かったこと。
そして、3つ目こそ、千代の富士の取り組みを見よう見まねで、工夫を凝らしたこと。
つまり、軽量選手には軽量なりの相撲があり 「どうやったら、自分より体のデカいやつを倒せるか」   千代の富士の取り組みには、軽量なりの夢があった。

そんな、まなざしをおいては、相撲に精進した学生は多く存在した。
こうして、千代の富士の全盛期をリアルタイムに見たのだが、ボクのように相撲大会への実戦における付け焼刃で、普通のファン心理と一線を画して、土俵の取組を見ていた‥  合掌。  

当時のボクの得意技 「右四つからの下手投げ」 「左四つからの上手出し投げ」 自己申告 (。-_-。)
posted by GIG at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Sports Fan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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