小学生のころ、家に風呂があるのに、どうして銭湯へ行きたがるのか不思議がられていた。
本当の理由は「誰か友だちいるかな」程度の好奇心と、夜に外出できる口実だった。
あのころであれば、友だちと遊ぶにしてもせいぜい夕方まで。
夜に会える場所は、銭湯か道場ぐらいで、離れ際の合言葉は「今日、銭湯いく…?」
そのころ、家風呂のない家庭も多く、銭湯には遊びに行く感覚だった。
湯船のふちに腰かけて足湯をしながら、ダラダラとしゃべりながら時間を過ごす。
会話に飽きると、ようやく体を洗い始め、カラスの行水で脱衣所に戻る。
ラムネのビー玉を舌でビンに押し戻しながら、名残惜しむようにチンタラと服を着出す。
銭湯の暖簾をくぐるときは、期待と不安が入り交じっていた。
下駄箱にサンダルを預けて、服を籐のカゴに入れて、曇りがかったガラス戸を開ける。
そこに友だちがいたり、親しみあるおじさんがいたり、「おー」なんか言いながら近寄る。
時には会いたくない上級生がいたり、墨を入れたおやじがいたりと、意図しない人とも出会う。
教育上、新潟の下町(しもまち)の子どもには、これがよかったんだ!
好きな人としか会わなかったら、苦手な人と会ったときの、間合いがわからなかったであろう。
年上への礼儀、年下には優しくするとか、簡単な挨拶の交わしかたなど、銭湯は学びやだった。
今は、簡単な挨拶ひとつできない人が多い。
銭湯に限らないが、情操的な場所に行かなかったから、間合いがわからない。
バスの中では、おばあさんに席の譲り方がわからないから、寝たふりするのと同じことでさ。
それで優しさなんちゃら、いっぱしなことを言っているんだから、もうちゃんちゃらおかしいわけよ。
自然と相手に失礼にあたらないように、銭湯で公衆作法を覚えていった。
年長者や先輩にあたる人には、こちらから簡単な挨拶を済ませて、やるべきことは先にやっておく。
評判の悪い男ほど、そのあたりまえができないから、男から相手にされなくなる。
さっきのバスの話と一緒で、寝たふりしている間に人望も損なわれているもの。
銭湯で学んだことは人情論。
雰囲気には緊張したけど、無防備な裸でいるときは、不思議といざこざは起きない。
湯に浸かって、体を温めて、あとは寝るだけなのに、誰が好んでトラブルを起こそうものか。
不思議なもんで、銭湯で出会った上級生と学校でケンカにならないのは、おたがいに裸を見せ合った テレがあるせいか、無言の連帯感ができている。
「おまえの家、風呂がないのか。おれの家もないから、まあ、仲良くしようぜ…」 こんな感じだ (笑)
銭湯は人の心の奥まで、和ませてくれるんだよね。
2013年12月09日
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銭湯に行きたくなりました。