社会的な事件をおこしたスポーツ選手(著名人)の供述に、「酒に酔って…」の言い訳がある。
酒を提供する立場からすれば、「あー、またか」と腹立たしい言葉になる。
しかも「子どもたちの夢を汚した」と詫びるが、お行儀のいい「お言葉セット」のようでハナにつく。
マスコミの質問の仕方にも、問題はあるとは思うけどさ。
人の才能は、心を豊かにしてくれる。
感動や共感、努力の在りかたを示してくれるからだ。
その意味では、人の心を動かすのは人であろう。
才能は遠い存在にあるもの。
今なら多くの野球少年たちは、楽天の田中投手に憧れを抱いているだろう。
僕らの世代であれば、王や長嶋にあたる。
王や長嶋にはなれないけど、この人の存在を励みにがんばれば、自分の向上になるとか。
加えて大事なのは、身近な存在の才能に触れているかだと思うし、まあ努力でもいいさ。
それは身近な他人を認める潔さでもあり、近くの才能に敏感になるべきだと思う。
僕は野球が下手な少年だった。
ヘタはヘタなりに、上級生の打撃や捕球を見ながら、それなりの格好はつけたものだ。
一流を学ぶことは情操になるけど、身近に「こいつを目指そう」の存在がないと浮き足立ってくる。
だから、人の才能に気づいて反応することが、実力をつけられる近道だったりすると思える。
最近、「置かれた場所で咲きなさい」(だったかな…)、そんないい言葉があるよね。
まずは置かれた場所で咲けないのに、何で夢を世界に向けているんだという話であってさ。
元スポーツ選手は、「子どもたちの夢を汚した」と紋切型な謝罪をした。
冷たいようだけど、子どもはその選手のことはそんなに見てないと思う。
交流のない選手に、情緒的になれるはずがないでしょ。
そのときだけ情緒的になるのは、土台から無理な感情であってさ。
現役時代に憧れた子どもたちは、最早大人になっているんだから、その言葉は少々空しく感じる。
現実の子どもたちは、もう他の新しい才能に触れているはずだ。
それで「夢を壊したなんちゃら」言われても、相手は困惑するし、独り善がりな気がしないでもない。
それを言うなら「皆さん決して私のような大人にならないでください」のほうが、まだ思い切りがいい。
子どもの初恋の気持ちが、いつまでも続いているはずもなかろう。
2013年10月23日
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