2010年06月29日

スポ−ツの誤審から見えること

サッカ−W杯の決勝ト−ナメントにおいて、誤審が議論を呼んでいる。

それはサッカ−に限らず、スポ−ツ全体の誤審に対し、ビデオ確認やコンピュ−タ−装置の導入も検討されてるようだが、個人的にはどこか味気ないものに感じてしまう。
理由は正確性を追求するあまり、審判の権威を失望させたり、審判不要論に発展しかねないからだ。
スポ−ツは人間が裁くから、筋書きのないドラマや感動が生まれるのであり、人間性を欠いた知性に委ね過ぎるとしたら私は反対である。
当然、誤審はあってはならないが、人間の目で見て判断するからこそスポ−ツは面白いと思う。

日本は1980年モスクワ五輪をボイコットしたことで、五輪参加に政治が絡んでしまうことを知った。
スポ−ツの裁定そのものに政治が絡んだとしたら、血のにじむような努力をしてきた選手たちは、気の毒としか言いようがない。
それは考えたくないが、審判とは“競技の見識者=エリ−ト”であるからに、魂(誇り)を売ることだけはしてほしくないし、そういう審判がいたとしたら、それは審判として敗北者である。

審判不在のスポ−ツが存在してなければ、選手不在のスポ−ツも存在してない。
あるとすれば、チンピラ同士の喧嘩ぐらいで、スポ−ツを低俗レベルにしてはいけない。
posted by GIG at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Sports Fan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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