2018年05月05日

泥中の蓮

3日の憲法記念日では、憲法9条の必要性が重点協議され、国民の賛否も割れている。
持論を述べる気はないが、世の中の変化と厳しい制限の中で決まることは尊いものだ。

こんな経験はないかな。
会社で会議を早く済ませると、真面目にやったのかと言いだす上司。
ただ時間をかけたからといって、うまくいったためしはない。
むしろ、決められた時間で話の核心が充分に議論されていれば、過不足はないはず。

「議論が足りない」 「もっと考えるべき」 と繰り返す人ほど事情知らずで、先延ばしをする。
かたくなに反対し、理屈と議論にふけるだけで、印象操作で個人攻撃を繰り返す人は厄介となる。
個人的に右でも左でもないし、支持政党もないが、どこにも属さずに考えないと思考が偏るもの。
答えはひとつじゃないし、時代の状況で有する平和が答えであってさ。

「ノーベル平和賞」 候補に、北朝鮮の金委員長の名前が挙がっているが、おかしくないか。
数字的に説明をすれば、±0を普通におき、−10の悪名高き人物が、ボランティア活動をはじめたのを紹介され、±0の普通におかれて、善良な人物に表彰されるのは、どう考えてもおかしいだろ。
±0に+10するならわかるが、−10に+10をして、±0で表彰なんて前代未聞だよ。

まるで偉い人に見えるが、本来は真面目に±0から、スタートした人に贈られるべきじゃないか。
前進したことは認めるが、今の一歩ではなくて、その先の歩みなのにね。
その発想は 「元不良」 をテレビに出したり、本を出版したり、講演をさせたり、不良をもてはやす、あの風潮と同じで、本来は過去の蛮行は恥じて、欲望を断ち切るのが更生であってさ。

こういうのって、品や粋でなく、これまた硬派でもなく、実例で評価しないと目が曇る。
拉致問題に向き合わない国家に、ノーベル平和賞なんて、勘違いも甚だしい。
posted by GIG at 00:00| Comment(0) | Diary & Social | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする