2017年01月17日

Pure Love

先日 高倉健のドキュメンタリー映画 「健さん」 を見た帰り、万代のコーヒーショップで、妻とやんわり感想を交わした。

高倉健は、56年に歌手 「江利チエミ」 と結婚。
子どもは授からず、親族トラブルの末、結婚生活は12年で破局、そのとき、高倉40歳、江利34歳。
11年後、まだ二人は独身のまま、江利は45歳で死去し、高倉は51歳ながら、生涯再婚することなく、彼女を愛し続けていた節がある。

葬儀では、江利の代表曲 「テネシーワルツ」 を葬送曲に多くの人に見送られたが、高倉の姿はなく、世間からは 「焼香にも来なかった」 と強くなじられた。
この話には、続きがあって、高倉が葬儀に現れたら、マスコミに取り囲まれて、親族や弔問客に迷惑をかけてしまうため、実は人知れずに裏口から入り、静かに焼香を済ませて、ひっそりと帰ったという。

以降、江利の命日には、毎年墓参りへ行っていたことから、それは純愛だったとも言える。
別れても、彼女に愛を誓い、他に女性の浮名はあったものの、最後まで俳優 「高倉 健」 のイメージを貫き、私生活を見せることなく、享年83歳でこの世を去った。

これを 「純愛」 と呼べるか、会話はからんだ。
細部は省略するが、夫婦は遅かれ早かれ、どちらかが先に、この世を去る日が来る。
生涯、ひとりを愛すことは純愛だが、更なる幸せを見つけるのも、解き放たれた純愛であると考える。
それは、残された相手に、寂しい思いをさせられないから、積極的に幸せを求めてほしい願望である。

人は人と生きて人生だから、形式はどうあれ、異性の友だちでもいいんだ。
純愛もストイックすぎると、相手は敬して遠ざけるから、交際は柔軟性も必要だ。
高倉のように、亡き妻を30年も思い続けた気高さは大切だが、本当に生きたいように生きたのか。
もしかして 「高倉 健」 であることがジャマをして、第二の人生を送れなかったとも考えられる。

純愛は字の如く、無償の愛、肌と肌を交えない関係も意味するが、いつまでも自分を束縛していたら、生涯の悔いにならないか、これだけは当事者でないとわからない。

結局のところ、世間的な評価よりも、自分なりのモノサシをもつことが、本当の純愛なんだろうね。
posted by GIG at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Bar & Human | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする