2017年01月29日

曲がり角

大手飲食チェーン店の深夜帯の営業時間が、検討段階に入っていると聞く。

近年の人手不足に加え、生産性の薄さもあいなり、顧客のニーズも減少しているらしい。

記憶では、日本の生活環境が大きく様変わりしたのには、2つの分岐点があったと思う。
まず、24時間営業の 「コンビニ」 「ファミレス」 など、街のいたるところに開店した、85年前後。
それから 「ケータイ」 「パソコン」 の所有が、あたりまえになった、00年前後。

これら、街を明るくして、一人暮らしを安全にしたヒットアイテムで、都会の夜の寂しさの溝を埋めた。
そのおかげで、一人でも生きていける環境が整い、それまで負担の大きさに影を落としていた、離婚や転職に明るさを照らし、特権をもたらしたと思える。

東京で独身生活をしていたころ、深夜の帰宅はザラながら、困ったのが食事面。
毎日、コンビニ弁当では栄養が偏るし、ファミレス系列ではいい加減に飽きる。
まず、台所で料理を作る時間を節約していたから、すべて外食か買い出し弁当。

店のメニューにも迷うことなく、ボクが席に座ると同時に、料理人は厨房の冷蔵庫を開けて、材料を取り出していたから、いつの間にか暗黙の流れに添うようにして、常連臭が漂っていたのであろう。
きっと、そこの店では 「深夜のエビフライ男」 と呼ばれていたに違いない。

それに、手作り感の飲食店ほど、早く閉まるから、結局、深夜の頼れる看板は 「ファミレス」 「牛丼」 系列が多くなり、独身のころは重宝した。
このあたり、ドラマの刑事がホシを張り込みながら 「あんぱん」 をほおばり 「牛乳」 で流し込む感覚だったから、あの頃の食生活なんて、まあ悲惨なもんだった。

だから、ドラマの容疑者が 「かつ丼」 で自供をするように、あのころ、女性に手料理をふるまわれたら「今晩、俺を好きにしてくれ」 と思っただろうね (笑)
一人暮らしの男には、かなりの確率で 「やすらぎはコレだ」 という気分にさせられる。

今は、24時間外食できるし、パソコンもできれば、人ともつながれるので、一人の時間は退屈しない。
だけど、充足感がないのは、一人暮らしの環境が整っているからこそ、逆に他者を必要としなくなり、 生活リズムを乱されたくない思いが、上回っているんだろうね。

若いころ、ワンルームで、半同棲生活をしていた人も多かろう。
その時代、セキュリティは玄関カギぐらいしかなかったから、男は女に何かあるといけないので、入口に近いほうに寝ていたと思う。
食費を渡して、飯を作ってもらう代わりに、ボディガードをするような、使命感はあったよ。

今では、男女の 「個」 が、それぞれ確立しているから、一人暮らしに深刻さはない。

その意味で 「85年」 と 「00年」 は、時代の大きな 「曲がり角」 だったとも言えよう。
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2017年01月28日

変節論理

少数派の論理が社会を席巻することもあるが、そこへ過剰に食いつく風潮もどうかとも思える。

その問題、ある託児所から、男性保育士に対し、女児の着替えや体に触れてほしくないなど、親御さんからの申し入れが急増しているという。
近年の性犯罪に端を発したのだろうが、資格ある保育士を犯罪予備軍扱いするんだから、嘆かわしい。

今の世の中、相手の仕事に敬意をもたないんだ。
ボク自身、父親を見送るまでの十数年、訪問介護に特養介護施設、終身医療病院でお世話になった。
その献身的な介護を見ながら、実技に口を出したり、担当者を代えてくれなど 「理のないクレーム」 を言わなかったのは、自分でも働きながら、在宅介護をした時期もあったから、大変さはわかるんだ。

そして、何よりも大切なのは、定期的なカンファレンス (家族と医療従事者の面談) を行い、きちんと意見を交わすこと。
気づいたこと、気になっていることは、その場で解決したし、年齢は若いけど従事者はプロ。
敬意を示せば、敬意で返してくれるものだ。

だいたい、クレーマーの心理は 「今日は何に対して、文句をつけてやろうか」 そんなことばかり考えてまことしやかに正義に変節させるから、神経過敏症も含めて、ほとほとタチが悪い。
揚げ足を取ろうとする悪意はあれど、向き合おうとする敬意はないんだからね。
個人的なつきあいは、絶対に避けたいタイプである。

保育士への要望にしても、屁理屈にしか思えない 「むちゃくちゃな意見」 を、社会が少数意見として、過剰に取り上げすぎるんだ。
人をうんざりさせる、対処のしようのない個別意見は厳しいようだが、本当に弱者の少数意見なのか、はなはだ疑問に思える。

「敬意」 の二文字を知らないんだから 「物事を大目に見る」 ことができないんだろうな。
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2017年01月27日

医療費 0

インフルエンザ香港A型が猛威を奮っているようだが、周囲を知る限り、あまり実感のほどはないが‥

近年 「あぶないかな」 と感じたら、早い段階で風邪薬を服用することにしている。
そのせいもあってか、ボクの去年一年間の医療費は 「 ¥ 0 」 だった。 

「病は気から」 ではないが、去年は父親の余命に覚悟があったし、妻の入退院なども重なり 「細い柱」 でしかないけど、緊張を強いられた一年だった。
だからこそ、気を張っていたこともあるが、これから先は、自身のリスクもあるだろう。

その甲斐もあり、外出から帰ると手洗いとうがい、口内洗浄は習慣になった。
風邪の諸症状を感じると、栄養ある食事をとり、風呂へゆっくりとつかり、寝室をオイルヒーターで温め、首にバスタオルを巻き、マスクをして充分な睡眠をとることで、それ以上にはならない。

仕事は代役が利かないので、注意することになるが、店での予防のほうが大切だったりする。
自身、インフルエンザは小学生のときにかかったぐらいで、大人になって高熱で寝こんだ記憶がない。
小さな風邪はあれど 「バカは風邪をひかない」 言い伝えに、オレはバカに近いのであろうか。

常備薬は 「早めのパブロン」 
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2017年01月26日

素っ頓狂

新聞の社会面に、こんな記事が載っていた。

会員制交流サイト (SNS) で、他人の幸せそうな写真 (記事) を見て 「イヤな気分」 になる人が、半数以上いるとの調査結果が報告されていた。
しかも、友人申請を削除されたり、反応がないのを気にしたり、門戸を開けながら、施錠しているようで、これじゃ、まるで 「気楽さがアダになる」 ようなもんだ。

ボクは、SNSはしない。
その風潮を見てると、だれと知り合って、なにを交流したいのか、そもそもの意味がさっぱりわからん。
じゃあ、仮に知り合って、仲よくなったとしよう。
そこで、何かしらの格差を感じたら、ネガティブな感情がおきるわけ ?

それって、私よりもいい家に住んで、いい車に乗って、いいモノを食べていることを知って、そこでまた、自分との生活を比べて、必要以上に嫉妬深くなるの‥  バカじゃん。

こうは、考えられないかな。
SNS上、豊かそうに見えても、たいそうな見栄で、その印象を維持するのが大変だったりする。
もしかしたら、気軽に飲みに出かけられないほど、カツカツな状態の裏返しかも知れない。
一点豪華主義と同じで、いい車を買ったら、メインストリートを走りたがる心理である。

大切なことは、自分はどういうことで幸せを感じたり、満足感を得たり、基準となるモノサシがないから、いつまでも他人の生活ぶりを見て、ネガティブな感情を繰り返すのは、コレ、あたりまえのことだろう。

それに、SNSの交流はカンタンだけど、ストレスもうけやすい。
都合のいいときは参加して、都合が悪くなれば保留 (無視) できる、躁鬱 (そううつ) 気質がある。
だから、そういうことにはまりすぎると、他人には敏感だが、自分は鈍感で、自我が崩壊してくると思う。
「たまには、外で遊んでこいよ」  こう言いたくなるのは、ボクらの世代なんだ。

まあ、便利には違いないが、相手を大切にしたければ、人間関係の 「基本は正面」 から。
相手の状況をおもんばかればこそ、思いやりのメールだったりするが、そうじゃない限り、いつまでも 「素っ頓狂」 (すっとんきょう) な、つきあいなんてしないよ。
要するに、使い方 見方 考え方 なんだろうね。

生身のつきあいをしていれば、おもちゃを相手に、疎外感に襲われることなんてないから。
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2017年01月25日

Lupin The Third

ジャズは 「どこから、聴けばいいかわからない」 という声をよく聞いた。

それまで、問診的な会話で傾向を探り 「これなんか、どうよ」 の感じで紹介をしていたが、今はネットでカンタンに調べられるので、懇切丁寧に人にモノを教えることもなくなった。

楽器を演奏する人は、いわゆるスタンダード (課題曲) を中心に勉強も含めて聴きこむが、普通に聴くのであれば、生活に密着したスタイルが心地よさになるから、入門ゲートは自由なんだ。

ジャズは感性で、内面が何を欲しているかであり、勉強じゃないこと。
クラシックの奏者は、絶対音感で譜面通りに演奏することを要求されるが、ジャズの奏者は、アドリブが魅力になるから、どれだけ多くの音楽を耳にしているかで、アドリブセンス (表現力) も違ってくる。

ビギナーにすすめる一枚は、ビル・エヴャンス 「ワルツ・フォー・デビィ」
感性的に一曲目 「マイ・フーリッシュ・ハート」 の美しさを感じられなければ、この先、なにを聴いても 「わからない」 で終始すると思えるし、ジャズのリトマス試験紙のような名盤だ。

だからと言って、だれにでも全部が全部、これをすすめるわけではない。
若い世代なら、ポピュラーなファンクビートで、カッコよくノリ飛ばせるほうが、断然聴き応えがある。
それは、ジャズから迂回するどころか、むしろ、インストモノへの理解を早める、近道のように思える。

サックスプレイヤーの大御所 「ウェイン・ショーター」 は、こう言っていた。
「ジャズはミッション (任務) の一部である」
つまり、表現の一つの形式に、ジャズがあるだけなので、かたくなに考えることじゃないんだ。

歌モノになるが、日本の女性シンガー 「 akiko 」 が歌うと、どんな曲も小粋なムードになり、これも、ジャズのフレームにおさまりきらない、現代ジャズのフレーバーを感じさせる。
その意味で、彼女と同世代の女性シンガー 「 JUJU 」 も、ウケている理由はわかるというもの。

だれもが知る 「ルパン三世のテーマ」 
「 akiko 」 にかかれば 「 JAZZ 」 = 「 JAZZY 」   クールな都会の夜を目覚めさせる。
 
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2017年01月24日

竹ほうき

23日 午前10時

吹きすさぶ風の音に混じり、窓を打つあられの音が続いた後、遠くで雷も鳴りだした。
窓の外を見るまでもなく、そのままベッドの中で、夢見心地を続けた。

昼下がりにカーテンを開けたら、街はすっかりと雪化粧されていた。
夕方4時には、冷たい吹雪にひるみながらも、自転車を押して外出。

ラブラ万代の正面入口は、駐輪場になっており、そこに円形のベンチに囲われた木が3本立ってる。
何の木かは、いまだにわからぬが、この木をフッと見上げて、四季の姿を感じていることがある。

寒々とやせ細った木は、吹きすさぶ雪を受けた 「竹ほうき」 が、逆さにおかれてるように見える。
そこに木があるだけでも、この街で暮らしていることを実感させられるから、何とも不思議な気がする。

もしかしたら、雪道を避けて歩くように、本能的にさまざまな感性を浴びているのかも知れない。
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2017年01月23日

どんな人物

先日、芥川賞と直木賞が発表された。

受賞者は同世代の男女で、自身の過去を色濃く反映させた、青春群像小説だという。
その一人、直木賞 「恩田 陸」 (52歳) は、それまでの実績からして 「忘れられていた受賞者」 の印象があるが、要するに 「継続は力なり」 であることを証明した結果であった。
それも、自らを 「酒好き」 と、豪語しているところが気に入った。

過去、同じ直木賞を受賞した 「向田邦子」 「山口洋子」 も、酒好きで知られ、何を意味するかというと酔うことで才気が磨かれ、人との雑談を通して、見方と考え方にオプションがつくと思える。
それに、経験のないことは、そうそう書けないでしょ。

例えば、女性経験のない、童貞の作家が 「長い髪をアップにした、肩からうなじにかけた首筋には、 女そのものが匂っていた」 だの 「柔肌に舌をはわせた」 なんて書いていたら、コレ、引用でしょ。
もちろん、経験になくても優れた感性はあるだろうし、書物や取材を通した執筆も疑似体験だろうが、 基本的に経験してこその 「センテンス」 であるべきだろう。

早熟なりに、恋愛小説を描きたいと思うなら、早くキスを経験すればいい。
その味、チェリーなのか、レモンなのかはわからぬが、少なくても感想は持つだろう。
「温かくて柔らかかった」 「頭がポッーとした」 「キスで気持ちを伝えた」 とか、それでいいんだ。
それが、思い通りにいかなかったとしても、経験そのものがきっと大切なことであってさ。
そして、大人になったら、自然に舌をからめて、気持ちを交わすことを覚えるんだ。

ウン、そんな過程を描ければいいんじゃないかな。
露骨に思われただろうが、男が分娩台に乗った女性の気持ちを書けないように、それぞれの経験でしか描けないことはあるからね。
もし過去を描きたければ、記憶を整理する必要があるし、未知なことは本を読んだり、雑談をしたりと、いろんなオプションをつけられるが、経験と会話なくして、絶対に自由な文章は書けない。

本はいろんな世界を教えてくれる。
その意味で、女性は女性にしか描けない、少し濡れた感じの目をして、物事を見る力がある。
お酒というのは、内面を少し開放して、自分を別角度から立て直すための媚薬でもあると思うんだ。
それを 「私、作家を目指しています」 と 「よいこの見本市」 みたいな文章のお勉強だけして、神経をすり減らしても、題材となる経験がないんだから、プロの作家なのに読んでつまらない本もあるからね。

ボクは 「ノンフィクション志向」 なので、ほとんど純文学は読んでないが、最近は余裕ができたのか、オプションに幅が広がった気もする。
だが、元々の学識がないから、その入口は単純なもんだ。

それでも、いい本は読み終えた後、新しい出会いの気分に浸れるから 「どんな人物」 か興味がわく。
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2017年01月22日

苦節15年

「号外」 であるから、急遽、投稿日を割り込ませてもらった。

21日 大相撲初場所 14日目
初土俵から15年、大関31場所目にして、ついに初優勝をした 「稀勢の里」

長年、期待をされながら、その不甲斐なさに呆れ、その度に出直しを誓うが、一喜一憂を繰り返した。
このあたり、過去に思いの丈を洗いざらい書いたので、ここで重複文は控えるが、稀勢の里ほど愚直で孤影、勝負師の悲哀を感じさせ、あまり周囲と交わらなかった力士も珍しいのではないか。

孤独 孤立 孤軍 孤影 孤高 ‥   その時代において 「 孤 」 の在り方は違っていた。
失礼ながら、彼ほど、負けて花道をひきあげる後ろ姿が似合う、何とも不名誉な力士はいなければ、  努力の割には、あまり報われず 「もしかしたら、間違った努力を重ねているのか」 とさえ疑った。

だが、その背中には 「今に見てろよ」 と悔しさをおさえた、沈黙の闘争心を感じられた。
そんな、彼の後ろ姿を情緒的に見て 「最後まで、追いかけてよかった」 と、今初めて思えた。

今晩 NHK サンデースポーツの優勝インタビューで、稀勢の里のコメントを興味深く聞かせてもらう。
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2017年01月21日

友情物語

20日 一年で最も冷え込む時期を、二十四節季で表す 「大寒」 だった。

午後の街は、灰色の雲に覆われていたものの、天候は穏やかで、気持ちよく萬代橋を往復できた。

この時期、新潟の街を見渡しても、春を予感できるものはない。
ひとつあるとしたら、日中に雲の切れ間から、一瞬だけ射しこむ、冬の光ぐらいだろう。
春を徹底的に拒んでいる大寒は、実は春の訪れをよりうれしいものに感じさせてくれる役目であることにだれも気がついていないのである。

冬と春のせめぎ合いは、有名童話 「泣いた赤鬼」 の友情物語に見立てられる。
人々は春の赤鬼を愛したが、これも冬の使者を扮する青鬼のひと芝居があったことを人間は知らない。
それを人間に知られたら、春の使者である赤鬼を愛する気持ちが薄れてしまい、冬の暴れん坊である青鬼は 「いつまでもいると、人間が迷惑するので去ります」 と、置手紙を残して消えていく。

赤鬼は青鬼がいたから、人間たちと仲よくできた。
同じように、冬の大寒があるからこそ、春のよろこびがあることを知る。
物語は、青鬼が赤鬼のために犠牲を払ったことで、ようやく赤鬼は青鬼のやさしさを知ることになるが、気づいた時にはもう青鬼はいなくて、それに甘えていた自分の弱さに号泣したのである。

ボクは、そんな冬役を演じて、友人の赤鬼を救った 「青鬼のやさしさ」 が好きだ。

童話と合わせれば、春は冬があるからのよろこびだが、まだまだ大寒‥  真冬の寒さは続く。
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2017年01月20日

退屈知らず

19日 ぼんやりとした意識のまま、自然と目が覚め、無機質な時計の背面のスイッチをオフにした。

カーテンは開けず、ベッドに横たわったまま、ナイトテーブルに手を伸ばし、スタンドの明かりを点ける。
一か月もしおりをはさんだままだった、芥川賞小説 「コンビニ人間」 を一気に読み上げた。
「コンビニエンスストアは、音で満ちあふれている」 とする書き出しは、だれもが利用する店内の様子を小刻みに描かれており、過剰な表現で理解に苦しむことなく、すぐに本編に導かれて読みやすかった。

物語のつかみは、回りくどい説明で間引かれるよりも、簡潔にはじまるか、あるいは核心から迫るかのほうが、これからの展開に生彩をあたえてくれる。
ジャズも似ており 「イントロ」 がつかみとなり 「テーマ」 へ導かれるように、小説における書き出しも、うまい下手よりも、独自のセンスこそが 「著者の個性」 になるんだろうね。

読み終えたのは、午後3時近く。
シャワーを浴びて、ゆっくりとコーヒーを飲んでから、買い物へ出ることが日課。

このルーティンが済めば、お店に看板を灯す。
毎日は同じことの繰り返しだが、毎晩変わる顔ぶれを迎えることを思えば、一日として同じ日はない。

つまり 「退屈な日はない」 のである。
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2017年01月19日

雑談交流

冬は寝る前に入浴、起きたらシャワー、一日2回は温浴効果につかる。
多いときには、3回はザラだが、潔癖症ではなく、気分をリフレッシュしたいため。

そういえば、ずいぶん前に、こんな 「心理テスト」 を聞いたことがある。

朝起きて、最初にする行動は 「セックスが終わった後の行動」 と一致するとか。
まあ、トイレは生理だとしても 「テレビをつける」 「パソコンをはじめる」 「SNSをチェックする」 だの、何の気なしの行動を 「後戯なき行為」 に、こじつけられたら、困っちゃうけどさ。

テストの答えがわかっていれば 「コーヒーを飲む」 (いれてあげる) が、安全だろうが、ボクのようにそのままシャワーを浴びに行くなんてのは、相手の心を折る、最低な行為 (解答) だよな (笑)

この質問、女性にしてみたいね。
答えが 「ベットの中で、ぼんやりしている」 とか 「ハーブティーを飲む」 なんて解答なら、ウンウンと、うなずけるが 「猫にエサをやる」 「うがいをする」 「ラインをする」 だと、男は悲しい気分になるよね。

こういう、くだらない話は、罪がなくていいんだ。
今は、皆で酒を飲んで楽しんでいるのに、ひとりだけスマホに興じていたり、そこにいるんだけど、そこにいないような、人の話を聞いていない様子を目にすることがある。

20年ほど前は、みんなが座持ちを心がけて、大人の遊び (社交) を知っていた。
だからと言って 「王様ゲーム」 や 「山手線ゲーム」 など、ガキのうるさい遊びではなくて、あくまでも周囲に迷惑をかけない、社交の一コマとして、雑談をつないでいく感じである。

ガロの名曲 「学生街の喫茶店」 2番の歌詞。
「君とよく この店に来たものさ 理由もなく お茶を飲み 話したよ」
喫茶店を情報交換にしていたから、対面で会話 (雑談) することは、少し慣れている世代である。

だから、スマホのグループラインを作って 「ほー」 だの 「へー」 だの、擬音語なのか、吃音なのか、それとも生返事なのか、直接話しかけてこないのに、そんな言葉を使えば使うほど、軽んじられるから、最近はようやくそこに気づいて、グループから抜けたいという人も聞くようになった。

大人の社交は 「バーバル・コミュニケーション」 (会話交流) こそ、正常な在り方だろうし、手軽なモノばかりに頼ってると、いざとなったら、ストレートに本音をぶつけて、人と会話交流できなくなるのでは。

人間関係は、直接的な 「雑談交流」 (つながり) であることが、一番影響していると思うね。
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2017年01月18日

無題雑記 70

17日 底冷えの大型寒波も、少しやわらいだ。

寝覚めにメールを開くと、男子バレー部の監督を務める 熱血教師 「Kさん」 からで、新潟県大会で 見事に優勝を決めたとの連絡。

大会前夜、心理的に気の休まる暇もない中、ひとりカウンターでウイスキーを傾けて、高ぶる気持ちを落ち着けていた姿があっただけに、ボクの視座からすれば、何かニヤニヤしたものがこみあげてくる。
その意味では 「ひとり時間」 というのは、貴重だよね。

夕方、近場のスーパーへ出かけた。
道中、昨日までの純白な雪は少なくなり、泥まじりの灰色が、街中をぬかるませていた。

寒波の影響で、流通網が混乱したかと思いきや、意外にも生鮮食品は価格も供給量も安定していた。
だが、鮮魚はシケで品薄なのか、気候と水揚量、流通は密接な関係であることがわかる。
その上で、チラシの特売品を用意するんだから、レジを通るまでは、大変なご苦労があるんだろうな。

手にしたピーマンは、お一人様5個までの特売品。
献立は 「ピーマンの肉詰め」 の予想に反し 「チンジャオロース」 だった。
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2017年01月17日

Pure Love

先日 高倉健のドキュメンタリー映画 「健さん」 を見た帰り、万代のコーヒーショップで、妻とやんわり感想を交わした。

高倉健は、56年に歌手 「江利チエミ」 と結婚。
子どもは授からず、親族トラブルの末、結婚生活は12年で破局、そのとき、高倉40歳、江利34歳。
11年後、まだ二人は独身のまま、江利は45歳で死去し、高倉は51歳ながら、生涯再婚することなく、彼女を愛し続けていた節がある。

葬儀では、江利の代表曲 「テネシーワルツ」 を葬送曲に多くの人に見送られたが、高倉の姿はなく、世間からは 「焼香にも来なかった」 と強くなじられた。
この話には、続きがあって、高倉が葬儀に現れたら、マスコミに取り囲まれて、親族や弔問客に迷惑をかけてしまうため、実は人知れずに裏口から入り、静かに焼香を済ませて、ひっそりと帰ったという。

以降、江利の命日には、毎年墓参りへ行っていたことから、それは純愛だったとも言える。
別れても、彼女に愛を誓い、他に女性の浮名はあったものの、最後まで俳優 「高倉 健」 のイメージを貫き、私生活を見せることなく、享年83歳でこの世を去った。

これを 「純愛」 と呼べるか、会話はからんだ。
細部は省略するが、夫婦は遅かれ早かれ、どちらかが先に、この世を去る日が来る。
生涯、ひとりを愛すことは純愛だが、更なる幸せを見つけるのも、解き放たれた純愛であると考える。
それは、残された相手に、寂しい思いをさせられないから、積極的に幸せを求めてほしい願望である。

人は人と生きて人生だから、形式はどうあれ、異性の友だちでもいいんだ。
純愛もストイックすぎると、相手は敬して遠ざけるから、交際は柔軟性も必要だ。
高倉のように、亡き妻を30年も思い続けた気高さは大切だが、本当に生きたいように生きたのか。
もしかして 「高倉 健」 であることがジャマをして、第二の人生を送れなかったとも考えられる。

純愛は字の如く、無償の愛、肌と肌を交えない関係も意味するが、いつまでも自分を束縛していたら、生涯の悔いにならないか、これだけは当事者でないとわからない。

結局のところ、世間的な評価よりも、自分なりのモノサシをもつことが、本当の純愛なんだろうね。
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2017年01月16日

健さん

昭和の高度成長期に青春を送った世代は、この人を思うと涙が出そうになるんじゃないかな。

15日 シネウインドで、高倉健のドキュメンタリー映画 「健さん」 を見てきた。

ブログで、高倉健をリスペクトするのは、2回目だ。 (2014年 11月19日 ブログ参照)
http://jazzbar-gig.seesaa.net/article/409167180.html?seesaa_related=category

それほど、人を惹きつける、男の哀愁と孤独があり、それが望郷の念へと誘うんだと思う。
同時に表面的なやさしさを売りにせず、本当のやさしさを持ち合わせた強さに魅力を感じる。
強さは暴力とは無縁で、知性と教養を備え、理不尽なことには一歩も引かない勇敢さがある。

ボクは、ドキュメンタリー映画には、用心深い。
なぜなら、人は過去を美化する傾向があるからだ。
没後、多くの共演者から、証言を聞くことになるが、わかったのは 「思いやりの人」 だった。

レイモンド・チャンドラー 「強くなければ、生きていけない。やさしくなければ、生きる資格がない」
群れず 媚びず 威張らず。
高倉健とは 「成熟した男」 に思えるんだ。

現代社会、健さんのように 「背中を見せる生き方」 は容易ではない。
これからは、どんどん幼稚化するし、沈黙を悟る感性もおとろえるだろう。
それに分別も理屈もわからぬ相手に 「男らしくしろ」 など言ったら、問題発言にされる世の中だ (笑)

そんな、俳優 「高倉 健」 と、本名 「小田 剛一」 
二面合わせても、健さんのような男に、少しでも近づきたいと思うのが、男の共感である。

2019年 元旦に 「新元号」 が検討されているが、たとえ変わったとしても、昭和のあるべき男の姿は語り継がれると思わせられた、ドキュメンタリー映画 「健さん」 だった。
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2017年01月15日

長ねぎ

特別に冷え込んだ日、食卓にはグツグツと煮えた 「湯豆腐」 が敷かれた。

鍋の具材では、とりわけて甘みのある 「長ねぎ」 が好きだ。

その長ねぎだが、スーパーで買って帰るとき、レジ袋から飛び出るので、持ち運びが面倒である。
ゴボウなら、袋のままポキッと折るが、長ねぎはむき出しだから、折ると苦い汁が飛び散りそうなので、人目をはばかってしまう。

以前は、レジのサービスカウンターで、真ん中からカットしてもらい、アイラップに入れていたが、最近はそこまでせず、袋からはみ出したまま、自転車の前かごに入れている。
これが 「フランスパン」 なら、オシャレだろうが 「長ねぎ」 では食生活が丸出しだよな (笑)

昔から、かぜの予防に、効き目があると言われている。
その味、煮れば甘く、焼けば苦く、調理によっては味覚もハッキリとする。
今年はまだ、かぜはひいていないが、これも長ねぎを食べたからであろうか。

一説には、かぜをひいたら、長ねぎを首に巻いて寝るといいというが、にわかに信じがたい話である。
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2017年01月14日

雪にも負けず

タクシードライバーが、言っていた。
「天候が荒れると、予定がない人は、みんな帰りますから、逆にヒマになりますよ」 と

13日 金曜日 雪が積もった。
中央区は、15cmらしい。
それも、寝起きの午後2時に気がついた。

会社へ出勤するのとは違い、お店は 「仕入れ」 がともなうから、買い出しは日課である。
それでも、自転車をリヤカー代わりにして、ただ黙々と状況に応じて使い分けるが、荷物の重量に雪の粘りが加わり、ブレーキが利きにくいため、加速の調整がむずかしくなる。
雪道に自転車なんて、人にすすめられないけど、つい便利だから、カッコなんて構っちゃいられない。
とは言え、自転車は軽車両扱いなので、その慎重さはあながち、冗談めかすつもりはないが。

今週、一般的に新年会や各種会合、年始の代休などで、ありがたいことに来店に連続性があった。
お客さんの中には、大きく二つに分けて 「年末派」 と 「年始派」 があり、どちらかに足を向けてくれるおかげで、一年タームで挨拶を交わせる、いいきっかけとなっている。
それに、宮沢賢治の 「雨にも負けず、風にも負けず」 タイプの強者も多いからね (笑)

雪の金曜日は、平日よりもヒマだった。
その分、まだ浅い時間、一見の出張客と久し振りに、深いジャズ談義を交わせた。
やっぱり、平衡感覚 (バランス) のとれた人と会話すると、後味は良いものだ。

また 「こんな雪の日じゃ、客も少なかろう」 と思ってくれたのか、雪道に複数の常連客の足跡。
こういう日だからこそ、人の心の温かさが胸にしみる。
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2017年01月13日

無題雑記 69

12日 気温3℃ 降水確率90% 雪の予報ながら、少し遅めの夕方4時に自転車で外出した。

その頃、妻は母と新潟駅前で、新春のカラオケ交流会。
いつの間にか、参加者も広がり、どこぞの夫婦や独り身も交えて、昭和歌謡曲を楽しんでいる様子。
そのうち、嫁と母の合作 「オリジナルCD」 を作るんじゃないかと、少し恐々としている (笑)

冗談はそれぐらいにして、こう寒いと 「ブラックコンテンポラリー」 俗にいう 「リズム&ブルース」 の 粘りある歌声を聴いて、身も心も温まりたくなる。
こういうとき、棚から引っ張り出すのが、愛聴盤 「アニタ・ベイカー」

彼女の魅力は、以前にもアップしたので、重複は避けるが 「 JAZZY 」 なヴィブラートがうなる、特に 「バラード」 は病みつきになる。
まるで、ジャズの女王 「サラ・ヴォーン」 を彷彿させるほど、並大抵のうまさじゃないね。

四季、それぞれに合った歌声はあるが、真冬であれば、彼女に勝るヴォーカリストは知らない。
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2017年01月12日

灰色の街

タレント 「ヒロミ」 が、成人式のバカタレ小僧たちの映像を見て、われわれの世代を代弁していた。

その言葉 「昭和の不良は、会場の中には、入らなかったよな」 と。
要するに 「すみわけ」 をしていたし、形式的な場所には、立ち入らないのが、不良なりの暗黙ルール。
だから、不良は会場の外を仲間との集合場所に使い、外で酒を飲むセコイ真似せず、そのまま街中へ飲みに直行するパターンだった。
お店も気を利かせて、特別に昼から営業する飲食店も多かったからね。

成人式には、筋金入りの悪党は来なかった。
礼儀知らずのバカタレほど、「遅かりし不良デビュー」 だから、やることは鼻で笑われるハッタリだし、 俗に 「ハンパモン」 って奴さ。
あの時代、成人式の時点で不良なんてのは、とっくに卒業してたはずで、身を隠しざる得ないやつは、暴力団の準構成員になっていたからね。

先日、お客さんに 「マスター、成人式は行ったの」 と聞かれた。
最初は行く気はなかったけど 「行かないで、後悔したよ」 という、先輩の声が響いたのであろう。
髪型はアフロヘアー スーツはイトーヨーカドー ? 父親にネクタイの結目を直され、母親からは洋服ブラシで肩や背中のほこりをはらわれ、玄関先で照れくさかったことを覚えている。

会場は新潟市体育館、式典は午前中には終わった。
だれとも約束せず、ひとりで行ったが、そこに仲間はいるし、形式だけでも静かに式典に参加したのは、招待状をもらうということは、そういうことだろう。
写真を撮りあうこともなく、終わればさっさとはしご酒になり、入れ代わり立ち代わり、深夜2時すぎまで男仲間と古町で飲み明かしていた。

その頃、勤めていた会社に辞表を受理されて、成人式の翌日あたりに髪を切り、これを契機に新潟から出る準備をしていたから、ボクにとっては 「出陣式」 みたいなものだった。

今と比べれば、あの時代、牧歌的でもあった。
成人を境に 「 (もう不良であることに) あきたよ 」 と、自然と群れるようなことをしなくなり、これから先、どこへ向かうかもわからなかったけど 「とりあえず、行ってみるか」 そんなノリだったと思う。
それまでの中途半端さに気づき 「自分のことは、自分で変える」 意思が、次第に顕著になってくる。

その背景には、下町 (しもまち) の雑踏感も、少なからず影響していたようだ。
小さな町工場で、油まみれになりながら、家族を食わしていくためには一生懸命に働き、そんな活力が港町下町の粋を支配していたし、どこの家庭にも屈強な美学が存在していたと思える。
全体的に 「理由は後づけでいいから、とりあえず何かしようぜ」 そんな連帯感はあったね。

当時の成人式に話を戻せば、そうして一度は解散して、時が流れて、また 「いい形で再会する」 のが同じ時代を生きた友人 (仲間) だったりするわけだ。

ここから余談だが、そんな来るべきして来る、別れの風景を描写していた映画が、松田優作が主演した 「ヨコハマ BJ ブルース」 (1981年) エンディングのラストシーンだ。
朝もやの中、それまでの仲間と直線道路を歩いているが、一人、二人、また一人と 「じゃあな‥」 と 挨拶を交わしながら、次第に違う道 (方向) へと離れて行く。
彼は早かれ遅かれ、こうなることはわかっていたから、最後のひとりになっても、顔色を変えずに、ただひたすら真っ直ぐ、どこへ向かうかもわからぬまま歩いて行くだけ。

映画の内容はサッパリ憶えていないが、最後のシーンだけは印象に残っている。
それは 「大人に変わる場面」 のようで、あれこそ 「男同士のカッコいい別れ」 じゃないのかってね。
若いときの仲間は 「近さ」 なんだけど、それが何十年後になると 「長さ」 になるというかさ‥

そんな松田優作が歌う、この曲のタイトル 「灰色の街」   今日のブログのタイトルにしておこう。
 
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2017年01月11日

Next Generation

お客さんも、それぞれのお正月を迎えて、扉を開けていただいた先週末。

サーフィンで日焼けして、バリ島旅行から、無事に帰国した 「Tくん」 
シンガポールから、一時帰国して、さらに女に磨きをかけた 「Hちゃん」
共に30代、どちらもハツラツとした表情がまぶしかった。

それが、50代にもなると、計画的でないと、海外旅行は縁遠くなる。
ボクでも、30代のころは、無計画な空想ながら、定年退職したら全財産を投げ売り、サイパンあたりで余生をおくりたいと思ったもん。

なぜなら、高齢化社会で、グチグチと愚痴ばかり言って、暗い気持ちで過ごすぐらいなら、いっそのこと言語が通用しない土地で生きた方が、楽しいんじゃないかとさえ思えた。
なまじっか言語が通用するから、先の不安ばかり募るんじゃないかとかね。

現実には、そんな余力はないさ。
今年も何とか、年越しができたなと思っているもん。
だけど、意識のどこかには 「こんなおやじにはなりたくねえな」 の反骨精神はあるわけ。

最近、同世代に違和感をもつことがある。
見た目の年齢など、社会観の自由は結構なんだが、意図してひとまわりも下の世代の俳優を真似たり、中にはジャニーズに似せたり、憧れの的を年下においているんだよな。
男も女も、それが若返りの素になるのはいいが、その目はどこか宙を泳いでいる。

われわれ世代、数年前なら、そうなれないにせよ、どこかダンディズムを感じさせる、渋い年上の世代を見習うべく対象にして、自らを形成したと思う。
昭和の象徴が 「高倉 健」 であったようにさ。
そして、不良っぽさの中に、やさしさがあり、色気と知性を含み、どこか少年のような大人‥

今は、上の世代が、下の世代のルックスを真似て、見た目の若返りだけをめざす、迎合さが気になる。
当店、60代のお客さんであれば 「Mをさん」 「N瀬さん」 らを見ていると、素敵な年の功を感じるし、上目線と下目線を交差させた 「中から目線」 で、理想の在り方を問うべきじゃないかな。

その意味で、50代は 「ネクストジェネレーション」 になるから 「いい年上」 を見本に学びたいね。

そう考えれば、俺なんて、ダメだ、こりゃ‥  (-_-;)
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2017年01月10日

還暦式

「品行は直るけど、品性の悪さは直らない」 と聞いたことがある。

今だ、成人式で分をわきまえないバカタレがいるが、テレビで過剰に取り上げているうちは、バカタレの連鎖は止まらないんだろうな。

成人式、本来の意味以上に、負を過剰報道すると、人はそこに期待するようになり、目がいやしくなる。
そうなると、成人式のバカタレを批判するための、バカタレを探さねばならないから、本末転倒じゃん。

だから、愚行を報道しない、意図した報道の自由があってもいいと思う。
バカタレを報道するなというわけではないが、今までの過剰報道につけあがったことは否めないよな。

この先、少子高齢化社会で、成人式の規模は縮小される。

そこで、ボクが政治家なら、木戸銭ぐらいの参加費で 「還暦式」 を企画して、残りの人生を 「老害」 なんて言われないように、もう一度 「還暦でふんどしを締め直す式典」 を提案したいね。
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