2016年12月11日

無神論者

愛にもいろんな意味があるんだな。

ある日、中途半端な時間に目が覚めて、何の気なしにローカル番組をながめていた。
そのコーナーで、新潟のお寺の住職が 「仏教の教え」 について説法しており、普段はあまり聞けない講和に耳を傾けた。

クリスマスも近い今日、キリスト教の愛の思想は、人はたがいに愛し合うことを教えにしている。
しかし、仏教における愛の思想には 「渇愛」 (かつあい) と 「慈愛」 (じあい) の二つあり、総じて 「愛には否定的」 (一定の肯定しかできない) らしい。

渇愛は人間ならだれもが欲する、お金や権力、異性や快楽などへの執着心を表すという。
それに心を奪われると、相手に求めることが多くなり、それが思い通りにならないと、いつしか憎しみに変わりやすいというのである。

「私はこうしてあげたから、相手もこうするべきだ」 という風な、愛の自己顕示欲。
社会問題でも、ゆがんだ愛の形が、ストーカーや虐待、DV被害などを引き起こしているのも現実。
渇愛はいつしか依存心へと変わり、人の平常心を狂わせていくんだろうな。

もうひとつの考え方が、慈愛。
仏教の教えとは、この慈愛らしく、その意味は愛とは与えるだけであり、それに対する見返りを求めたり期待などせず、尊重が愛であることを説いてるんだから、複雑に入り混じる気持ちが氷解した。

例えば、自分の子どもにここまで教育投資をしたのだから、子は親にこうせねばならないと考えるのは、お門違いであってさ、やっぱり、親は親の人生、子は子の人生なんだろうな。

ずいぶん前、島田紳助が執筆したコラムだったかに、子どもの教育論について 「ぼくは子どもを愛しているから、期待はしないけど、信頼はしている」 と記されていた。
親が子に期待をかけすぎると、子はプレッシャーとなり、正直な人生を歩めなくなるというんだ。
慈愛の話を聞いて、そのときのコラムを思い出した。

これこそ、慈愛の教えであり、身近な人間関係でも、愛情の回収なんて考えてつきあっている以上は、 うるおいを感じることはないだろうし、極めれば 「無償の愛」 しか残らないんじゃないかな。
人にしたことは、相手がどうとるかであり、自分で語っちゃいけないし、与えたことは忘れてしまうのが、仏心なんだろうね。

つまり、それぞれの 「いい部分」 を知ると、人生を考える上で、少しは役に立つ。
キリスト教に入信したら、仏教がわからなくなるし、仏教にはまったら、キリスト教を否定するだろう。
政治でも、与党に野党、右傾に左傾、学歴にも、文系に理系と対立軸はあるが、よくよく考えて見ると、おたがいを勉強してないんだから、わかりあえるわけないじゃん (笑)

ボクは、ノー天気な 「無神論者」 と言われようが、これからもそれで生きていく。
posted by GIG at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Bar & Human | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする