2016年04月21日

無償の品格

連日、熊本地震の関連ニュースが、速報として伝わってくる。

考えるべきは、正確な情報を得た上、被災地への想像力かと思える。

優先は人命救助で、直情的に動かれたら困るし、そんなとき臆面もなく絆を説く人の気が知れない。
「今はそんなときではなく、現実を見るときだろ」 とも言いたくなる。

被災者の辛さは、仮に何百人亡くなろうと大切な人を一人亡くした、悲しみの方がよほど深い傷なのに、それを表に出さずに黙って助け合っていた姿に心を打たれたのが、あの東日本大震災だった。

そういうとき 「歌や笑いを届けて勇気をあたえたい」 と叫ぶ人は、震災の解釈がおかしいと思えるし、復興支援は5年、10年と続く活動になるから、当初は募金、おちついてから、よきにはからえでいい。

現実問題として 「ライフライン」 と 「最低限の衣食住」 が整ってから、ようやく心から笑えるように  なるんだから 「元気の押し売り」 も考えモンだよな。

テレビのバラエティーも自粛すべきと問われているが、そこまでの自粛は必要ないだろう。
見たければ見ればいいし、見たくなけりゃ見なくてもいいだけの話で、別に規制されることではないし、人なりの倫理で判断すればいいだけのこと。
そうしないと共感に値しないと言うのは、共感に名を借りた 「エゴ」 に近いかと思う。

日本人は集団になると、感傷的になりやすい。
共感性の部分では間違ってはいないが、いつまでも引きずりやすい傾向があるんだ。

ボクは一個人として、その間違いに気づいたのは、2004年の10月23日に起きた新潟県中越地震。

それまで毎年11月には、震源地からほど近い、小さな温泉宿へ夫婦で出かけていた。
しかし 「こんなとき、のんきに温泉なんて入れない」 と余震の心配もないのに予約をキャンセルした。

ここで考え直すべきは、現地は風評被害も含めて、個人事業主は死活問題にも陥っており、来てもらうことが一番の活力と支援なのに、ボクは感傷的になり、肝心なそこを理解していなかった、当時39歳。

被災地を思うことは大切だけど、実体支援の方がもっと大切であることに気がついた。
こうして、あらためて、1月に予約を入れ直した。

その考えで行けば、東日本大震災でも、安全なのに風評被害で苦しんでいる土地の農作物を買うとか、おちついた頃に見識を兼ねて観光に行くなど、時間と余裕があれば、それも立派な復興支援である。

それを物資が不足していると思いこんで、ボロボロのクソパンツをダンボールにぶちこんで送ることは 支援じゃないし、被災地はリサイクルショップじゃねんだぞ。

まして、ギターを背負って歌を聴かせたいとか、お笑いで笑顔にしたいなど、一体どういう了見なんだ。
今やろうとしていることは、早朝の枕元で 「勝手にシンドバット」 を歌おうとしているようなもんだ。

悲しみにうちひしがれている人が立ち上がることを、温かく見守るのもひとつの方法であり、それを理解できなければ、声高らかに絆を口にする資格はないんじゃないか。
それが、私的なSNSに投稿するための行動なら、無責任極まる偽善行為である。

それなら、情報を冷静に受け止めて行動するか、募金一つの方が、現地はよっぽどありがたいわけで、ボランティアも含めて、良いことは宣伝せずに隠れてすることが、本当の思いやりじゃないのかな。
そういうのが、奥ゆかしさであり、自分がやったことを吹聴することはないんだ。

絆を声高らかにしている人に、ボクならこう切り出すかも知れない。
「本当にその気持ちがあるんなら、被災した家族をしばらく、君の家に泊めてあげなよ」 と‥
それが、究極の絆と人助けだし、そこまでできたら、本物だと認めて君に謝るよ。

やるんなら、それぐらいの気概と覚悟をもたなきゃダメなんだよな‥   オレはできないな。
posted by GIG at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Bar & Human | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする