2014年10月16日

フォトグラファー

15日 昼下りに野暮用が入り、自転車で 「ヘイコラサッサ」 と言いながら、下町地区へ向った。

柳都大橋の階段を下り、川ぞいの遊歩道を北に進むと 「みなとぴあ」 という憩いの文化施設がある。
いつもは素通りをして、入船町の鉄工所通りを突っ切り、海辺の町にほど近いところまで行く。

その日に限って用事を済ませてから、対岸が一望できる公園のベンチに腰をかけて、目の前に広がる港や船、見上げた秋空をボッーと眺めていた。
普段はこういう気にならないが、これから徐々に寒さが増して日暮れも早くなるから、陽だまりみたいな場所に少し身を置きたいと思ったのかも。
このあと、自転車で15分ほど要する場所へ行くことを予定していたが、変速機を最大6馬力に切りかえガキになって、ペダルを回せばいいだけのこと。

それより今、「陽だまりがほしい」 と思ったことに忠実にならねば、また今度で秋空が過ぎ去ってしまい今度は春になっているだろう。
この 「今度」 という便利な方便に気持ちが流され、本当はいい風景を見逃していたりする。
今度、今度、また今度ばかりだと、ムダに年齢を重ねていくだけだから、それこそ今なんだ。

僕は手持ちの通信機器を使い、周辺の動画や画像を撮ることは少ない。
それに自画撮りした顔を、世間に公表するほどのナルシズムぶりもない。
最近、スマホでなんでもかんでも撮影して保存後、すぐ公開する感覚に世間が慣れてしまったから、    被写体を目に強く焼きつけておく、眼力が損なわれているのではと思う。

芸術まで大げさでないにせよ、趣味の範囲で収集してるとは言え、いい大人が高校生のプリクラ感覚で撮りまくるのは、ちょっと考えものじゃないかなとも思える。
だから、最近の写真からは 「これだ!」 と言える、気合の入った一枚が感じられないのだ。

今朝の新聞を斜め読みしていたら、写真家のアラーキーこと 「荒木経惟」 (あらきのぶよし) の   インタビュー記事がとても印象的だった。
最愛の妻が、生死にかかわる手術を受けているとき、夫である荒木はそばには立ち会えない。
ドラマであれば、手術中の赤いランプ、待合室の無機質な長椅子に、満たされない心情をおいたりする。
だが、彼は待っている間、ひとりで病室の窓から願いをこめて、見上げた空を撮影していたという。

妻が病と戦っているとき、自分は何を見て、どう感じていたのか、そのときの心情を記録していたんだ。
それも、スティービー・ワンダー の名曲 「リボン・イン・ザ・スカイ」 を聴いているかのように、      空を撮っていた感性は芸術を飛び越えた、「魂の叫び」 があるんだ。 (僕の好きな歌詞なんだ)
末尾をこう締めていた…  「デジタルなんて、なにも写らないよ」 とね。

写真に釘づけになった経験はあるだろう。
不思議なモンで、写真が訴えかけてくるのは、人の情なんだ。
鈍い奴は自分の視線には立つが、相手の視線には立てないから、絶対にいい写真は撮れない。
この世を去るとき、病室の天井を見て逝きたくないでしょ。
つまり、自分の視線は、自分だけの視線にあらず…   アラーキーが表現したのは、ここだと思う!

まあ、そんなことを書いておきながら、ベンチで見てたのは港でも船でも、まして青い空でもなかった。
今にも目の前でラブシーンを演じそうな、若いラブラブカップルのほうに気をとられた。
しかし、どうやら、「私服のおっさん」 の存在が目ざわりだったのか、静かに場所を移動してしまった。

僕に好奇心はあっても、ふたりの仲をジャマする悪気はない…  許せ若者。

  
posted by GIG at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Bar & Human | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする