先週、テレビに向って 「大きなお節介だよ」 と、ひとりごと。
よほどのことがない限り、ボソッとつぶやいて、お終いにするのが普通の人であろう。
25日のブログに 「母系社会」 とタイトルをつけた。
もちろん、ブログは対話をもたらさない、庶民のつぶやきみたいなものだ。
また、意見を広めるかのように、どこかへ投稿したりする性質のものではない。
それに閲覧するかしないかは、それこそ個人の自由だから、意見を求めてのことでもない。
ブログのコメントは、良識ある投稿者がその趣旨を理解しているから、受けつけているのであって、 寧ろ気軽に花を添えているものだと思っている。
ITが普及する以前であれば、自分と異なるメディアの意見があったら、ひとりで文句をつぶやいているか舌打ちのひとつでも鳴らして、お終いにしていたと思う。
それが普及した以後になると、だれもが気軽にキーボードを打ち込めるようになったから、もう大変。
それまで筆不精だった人たちが、文才を得たかのように、悪いほうに饒舌 (じょうぜつ)と化した。
しかも、相手の意見が気に食わないと言って、方々に自分の感情的意見を送る快感を覚えてしまった。
その人とは似ても似つかない、急変した興奮文章だったり、逆に慇懃無礼 (いんぎんぶれい)さが、 鼻についたりすることもあるだろう。
ボタンひとつで文章に感情をのせれるんだから、見方によってはおぞましい世界である。
これがペンを要する手紙などになると違う。
ポストへ投函するまでの時間があるので、まだ冷静な文章としての体を成しているものだ。
ご年配の文章が上手いのは、考えてペンを走らせた時代だったから、想いが伝わってきやすいから。
それをなまじっか、「キーボード操作で覚えた日本語」 に、はまりすぎると、文章が感情的に陥りやすくなる気がする。
なんでもかんでも、ラインやツイッターでコミュニケーションしたがる人は、これがストレスの原因であることに気づいたときには、もう依存症になっていたりするんだよな。
だいぶ前、急を要する仕事で 「電話なら、すぐに回答がわかるじゃないですか…」 と言ったら、 困惑顔で 「その人、電話に出ない人なんですよ」 と、こうきた。
そのときだったかな… 「まどろっこしくなってきたな」 と、思ったのは。
子どものころ、肉を食べたら、そのぶん野菜も食べろと言われた。
言語も同じもんで、文書と会話のバランスがよければ、コミュニケーションが不自由することはない。
その意味では、言語両道 (読み書き・聞き語り) は、あらためて大切なのだと思える。