長年購読している新聞の見出しから社会面、さらには社説に至るまで、日本文理高校の甲子園での 健闘を讃える記事が、連日大きく扱われている。
新潟県民の関心の高さもあろうが、新聞に限らず取り上げ方が過剰な気もする。
題材的には勝っても負けても、不屈の闘志 心打つ夏 勇気と感動など、県民を代弁するかのような 小刻みな言葉が紙面を飾っている。
僕も惜しみのない拍手を送るし、選手の努力にもくみするものの、過熱した高校野球の取り上げ方に、 「彼らは高校生なんだけどな…」と、冷めた見方もしている。
それでも、高校野球は多くの人を魅了する。
夢や希望などの、語彙(ごい)はいったん置くとして、そこにはまぎれもなく、十代で経験したことがある、青春の匂いがするからだと思う。
選手はプロのように技術的に洗練されておらず、人が喜ぶような芸も持ち合わせていない。
持っているものは、まだ何にも汚れていない、クリアーな世界に生きる純粋さである。
われわれの高校時代と比べると、ひとえに温厚すぎる気もするが、それがチームとしての仲間意識の 強さであろうし、僕なんて色紙に描くサインの練習をしていたんだから、一体何を企んでいたんかな…
心を衝き動かされるのは、経験したスポーツや努力量は違えど、こうして大人になったということ。
つまり、共感や応援をすることで、できなかった青春におとしまえをつけようとしているんだと思う。