数日前、中学時代の後輩が横浜から帰省し、その合間にお店へ立ち寄ってくれた。
彼の実家は下町 (しもまち)にあり、両親も健在でいい友人たちにも恵まれているので、節目には こうして故郷に顔を出すらしい。
しかし、帰省の解放感だけにひたっていられないのも、僕と同じ長男の定めでもある。
親の世話や自宅の老朽化に加え、自身の仕事のことや恋愛から結婚生活に至るまで、いずれはもっと現実的な出来事にも直面してくる。
それまで忘れていたことや、起こりうることまで含め、いつまでも先延ばしにするのも不可能となる。
それは故郷を離れてわかる心境でもあり、とめどなく念ずる想いだけが次第に押し寄せてくるものだ。
年齢や経験を重ねていけば、家族との折り合いに知らん顔もできなくなる。
あと数日もすれば、新潟駅などの各交通機関の玄関口から、夏休みの思い出を元気に語る日焼けした子どもの笑顔がテレビ画面いっぱいに広がるであろう。
だけど孫にあたる笑顔とは対照的に、実の親子関係は戸惑いや焦りにも似た心境なんだと想う。
本当はおたがいの人生を少しでも語っておきたいのだが、いざ対面すると成長のギャップに戸惑いを 覚えながら、実際は肝心の話をなかなか切り出せずにいたりする。
間が持たないから、話そうとすれば緊張でたどたどしくなるし、そこに子ども(孫)でもいれば、一時の 沈黙をうめられる格好の潤滑油にもなる。
本音は早く本題に触れたいが、親子関係という家族だからこそ、氷解しにくいこともあるだろう。
夏の終わりころ、帰省するたびに新潟の静かな浜辺で寝転んで風に吹かれていると、それまで気にも していなかったことに、気がつくようになったのが、20年前の夏…
家族だから、空気のような存在になってしまうことがある。
目を背けていたわけではないが、自分のことで手一杯になり、いつのまにか気がつかなくなるんだ。
だから、時の流れを実感として認め合えるようになってこそ、はじめて親子関係らしくなるんだろうね。
まあ、今になっての人生観でしかないけど、自分の年齢をつかめるようにはなりたいとは思っている。
夏の帰省とは、理屈と違う感性で言いそびれてしまったことを胸に秘めて戻る… そんなもんだ。