2014年01月22日

木村庄之助

大相撲本場所中。

夕方、出勤前の身支度をしながら、大相撲中継を横目にしていることが多い。
いつもは仕切り線で向き合う、両力士の所作を見ているが、立行司の存在には目が向かない。
だが、もし向正面に立行司がいなかったら、これほど味気のない画(土俵)はないであろう。

7年ほど前、「33代 立行司 木村庄之助」の行司人生を振り返った書籍に触れたことがある。
長文の行に、「行司はありのまま見る」ことが、一番大切であることをつづっていた。

往々にして、人は自分の思い込みで物事を判断する傾向がある。
例えば横綱と前頭が対戦して、土俵際できわどいもつれ方をした場合、横綱に軍配が上がりやすい。
そこには、横綱の強さと風格が影響していると思える。
しかし、それが良からぬ差し違いを招き、ときには見えてなかった場面まで作り出されるともいう。
つまり、土俵上の対戦を素直に見ることが立行司の役割であり、思い込みのいけなさを指摘する。
これ、簡単なようで、簡単じゃないことだよね。

一年前の初場所だったかな…
結びの一番で、横綱「日馬富士」の流れた足が土俵を割ったとして、向正面の勝負審判(大徹)が手を上げて対戦を制止したことがあった。
結果、足は勝負俵に辛うじて残っており、中断の取り直しで日馬富士が勝ったのだが、結びに水を   注されたとしてマスコミに誤審を叩かれた。
それに対して勝負審判である大徹は、「私にはそう見えた(足が出た)」と堂々と釈明した。

僕は、「これぞ、勝負審判の鏡である」と思ったね。
会場の空気を読まず、見えたことに端を発したんだから、勝負審判の役割を果たしたんだ。
誤審か否かは協議後に判明したが、優柔不断な審判ならこうはならないはずだ。
見方の違いかもしれないが、そこを間違えると「見る側の崩壊」にもつながると思う。
何ごとも主役(力士)に目が向きがちだが、物言わぬ立行司や勝負審判の秘めた役割が響く。

今日のタイトル、「木村庄之助」にしておく。  さあ、大相撲ダイジェスト10日目を見ようかな…
posted by GIG at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Sports Fan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする