2013年11月06日

松田優作

11月6日、俳優 「松田優作」 の命日であり、生きていれば 「64歳」 である。

過去、何度かタイトルを変えて、松田優作を書いた。
今も、俳優としてリスペクトされているが、人間としてはあまりほめられた人物ではなかったらしい。
神経質で嫉妬深く、暴力的な言動も多かったという。
激しい気性の裏には、飽くなき理想への追求があったのだろうが、とても正当化できることではない。

その生き方は、自分の前を走る男たちを常に追いかけている。
だが、その存在を追い越したと思うと、次は批判をはじめる。
彼の原動力が嫉妬であれば、嫉妬の対象にされた男は大変だ。

松田優作は 「萩原健一」 に憧れていた。
実際、萩原健一 (ショーケン) の自叙伝には、このような行が書かれていた。
「今はいいけど、どうせまた俺にも飽きて、批判を言い出すだろ」 と。
前の矛先だった 「原田芳雄」 は大人だから黙っていたが、いずれそうなることはわかっていた。
つきあいがはじまれば、ささいなことでトラブルになることは予想できる。
つくづく難しい役者だが、その強烈な自意識があったから 「ブラック・レイン」 で成功したと思う。

「長いものに巻かれる」 ことを、嫌がっていた節もある。
「太陽にほえろ」 での 「石原裕次郎」 への義理立てで 「大都会」 にも出演した。
自分が意図する方向ではなく、同時に 「石原プロモーション」 入りも断ったとか。
映画を強く意識していたので、ドラマ仕立てな石原プロとは合うはずもない。
以降、現場で彼の名前を出しにくい空気が漂い、イメージは一匹狼タイプだったようだ。
その反面、自分を慕うものだけを集めて、小さな集団を作りたがる、お山の大将な一面もあった。
「ブラック・レイン」 で演じた 「佐藤」 と子分の主従関係の如く、私生活は似ていた。

脚本家 「丸山昇一」 は、彼をこう語った。
「骨の髄まで憎んだ」 が 「骨の髄まで愛した」 とも語っている。
ある映画監督は、訃報時 「長渕剛」 の初主演映画でメガホンをとっていた。
歌手として成功している長渕であっても、映画のことはまだまだ知らないはず。
監督は映画への情熱はありながらも、次第に長渕の身勝手さに耐え切れなくなった。
その訃報を聞いて、急遽撮影を中止し、葬儀に出かけた翌日、監督を降板したという。
映画作りにかかわった人たちのコメントを聞いてると、時として凶暴、時には繊細、自我は尋常でなく、映画作りの情熱は誰もが認めた。

彼の自意識に嘘はなく、自分を決して裏切らない。
個性むき出しの生き方を 「役者魂」 と呼んでいいのかわからない。
だが、時代が生み出した俳優として、人の心を虜にする男だったのは確かだった。
「享年39歳」 の松田優作を語るのは複雑だ。
時間は 「1989年」 で止まっている。

余談だが、僕は東京生活の後期 「三鷹」 が住居だった。
マンションから見下ろすと、三鷹通りと連雀通りが交差する四つ角に 「禅林寺」 がある。
ここは 「森鴎外」 「太宰治」 が眠る寺として有名だが 「松田優作」 も眠っていることを知ったのは、ずいぶん後 (新潟に帰ってきて) からで、墓石には一文字 「無」 と刻まれているらしい。

こうして語られるうちは 「松田優作は生きている」 んだ。

posted by GIG at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Cinema Fan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする