2013年09月05日

親父の拳骨

柔道の名門、天理大学柔道部で、上級生による下級生への暴行が発覚し顧問が辞任するという。

暴行の理由は、下級生の練習態度が悪かったというが、やったことは肯定できない。
本当のところはわからないが、上級生の生真面目さや、責任感も背景にあるのかな。

道場は技術を教える場でありながら、人格的な教育をする場でもある。
ただ強くなるためなら、技術だけを教えておけばいいが、家族のような結びつきは成せない。
技術だけでは、人間凶器を社会に放つようなものだから、人格的な教育も必要になるわけだ。

暴力を振るったから、人間性まで否定されたらやりきれない。
仮定の話だが、その態度が著しく悪く、扱いにくさからくる戸惑いや悩みもあるかも知れない。
まして、自分たちが汗水たらしてやってきたことならば、おちゃらけた態度に裏切られた気持ちにもなり爆発したとしても不思議ではない。
もちろん、理性的に指導しなきゃならぬが、本能的に手が出てしまったことに、本当は何が起きていたかわかることもあるわけで、そんな単純なことじゃないんだ。
暴力は肯定できないが、ある一定の理解を示すことも大切な気もする。

例えば、道場の練習開始時間が、夕方の4時からだとする。
怠慢な遅刻を繰り返す者には、それなりの信賞必罰は課せられるべきだろう。
まず、4時開始と言ったら4時であり、4時半でも5時でもない。
遅刻の検証だのこねくり回して、痛くない腹を割り出しては、わがままを正当化させているようなもんだ。
挙句に「人生とは…」なんて、さわやかに語られたりしてたら、余計に過保護にするだけだ。
4時と言ったら全員4時だから、一丸となれるのであり、それこそ集団行動あっての個性だったりする。
まどろっこしいことに、いちいち時間を費やさなかったと思う。

昔は、それなりにニラミが効いた、怖い顧問や上級生はいたはずだ。
「先輩が怒ると怖いぞ」とわかっているから、自分自身を律するとか、ひな型にはめられたからこそ、  統率がとれた部分もあるし、一定の効力はあったと思える。
近年、そういう風潮は批判されるが、批判が行き過ぎれば、怒らないことが不自然になったりする。
その代わり、強くなるための技術論だけになり、結びつきはどうでもいい関係になる。

今回の暴行不祥事。
ストレスを発散するかのように、目的もなく弱い者をいたぶるような残酷さはあったのか。
それとも、家族のような結びつきを目指したからこそだったのか、そこは知りたいところである。
暴力は肯定しないし、本当のところはわからないけど、もし愛情があってのことだったのであれば、   一定の理解の中で不祥事を考えなきゃならないと思う。

親父の拳骨と同じである。
posted by GIG at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | Diary & Social | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする