2012年12月25日

本の体を成す

今月から、明石通りにある市立図書館へ入会した。

週末や連休は学生で賑わうようなので、なるべく静かな平日に出かけている。
本屋や図書館で過ごす時間は気持が落ち着く。
あまり立ち読みはせず、本棚をZ目線で眺めながら、好みの一冊を探すのが好きだ。
作家やジャンルは問わないが、傾向的に「ノンフィクション」「エッセイ」「自叙伝」が多い。
一度に何冊も手にすることはなく、一冊読んで次へ進むので、必然的に足を運ぶ回数は多くなる。

読書の魅力は「共感」にある。
自分の中にあるカタルシスを表現されていたりすると、こだわりがウソのように消えていることもある。
そう思えたとき、著者と仲間になれた気がした。

有名人が出版した本のほとんどは、ライターの口述筆記方式か、本人の原文を加筆したり添削する   いわゆる校正出版されたものが多い。
だが、共感できるのは他の誰のものでもない、その人の「本音」が描かれているかである。
本を読む上で、ここは比重を占める。

今から7年前、鹿児島県南部にある「知覧特攻隊 平和記念館」へ出かけた。
旅の目的のひとつに、特攻隊が祀られている記念館へ、彼らが愛する人に宛てた遺書を読むためだ。
出撃の前夜、遺書を書きながら、枕を涙で濡らしたという。
その明朝、整備不良な特攻機に片道の燃料だけつめて、敵艦を目がけて特攻していく日本男児。
検閲を受けるので、遺書にウソもあると聞くが、僕は死を覚悟した若者がウソを書くとは思えない。

本は「本音」の如く、本音が描かれていない本は、本の体(ジャンル)を成していない。
本音を語れないのなら、最初から「フィクション」として描くべきなんだ。
次世代に本音をつないでいくには、不確かな言葉よりも書物は思いの外に大切だと思える。

「そうだったのか…」  読み終えた後の余韻がいい。
posted by GIG at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Bar & Human | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする