2012年06月25日

偏見を捨てろ

5月に浦安市で発生した、看護師殺傷事件の犯人が逮捕されたことは記憶に新しい。

有名大学を卒業後、IT企業に勤める容疑者(26)の素顔を知る人は、口を揃えてこう言っていた。
裕福な家庭で成績優秀、優しくてリーダータイプ、明るくて仕事熱心、会えば挨拶をする人だった。
人柄を判断する上で基準とはなるが、さて、これを聞いてどう思ったであろうか…

普通に判断すれば、犯罪とは無縁なタイプであろう。
だが、一流企業に勤める人が横領をしたり、教職でありながら教え子にわいせつ行為を働く世の中。
警察官が万引きしたり、消防士が放火事件を引き起こしたりもする。
そういう立場による思い込みが、人の目を曇らせてしまうのだと思える。
その意味でいえば、警察の着眼点もまだまだ捨てたものではない。

僕の高校時代にさかのぼる。
母校は知る人ぞ知る、超有名ワル学校と呼ばれていた。
街中で校章を代紋代わりにチラつかせれば、関わりあいになりたくないと思われるほどだった。
その偏見は次第に気持の中に鬱積していったが、発散する手段が柔道だったので、高校3年のときのある一件だけを除いては、いい思い出として書けることばかりである。

それでも、腹立たしいこともあった。
世間の色眼鏡に、態度を便乗させている生徒が多かったこと。
不良高校だから「つっぱる」、偏差値が低い学校だから「勉強はしない」など、こうして世間の風評に迎合する奴は嫌いだった。
「どうせ、俺らは世間から認められていないし、吹きだまりの高校だから、この程度でいいんだよ」とか、「どうせ、俺らはバカだからよ…」だの、自虐的な言葉。
この言葉は30年経過した今でも、思い出すだけで不快感が先立つ。

まるで認められないのは、自分の純粋さと勘違いしているようにさえ感じた。
だから、なおさら世間がそういう目で見てしまうわけだ。
自分の存在の意味づけは、自分で作るものであろう。

僕はこういう考え方をしている。
泥沼に咲く、蓮の花を見てきれいだと思えるか。
きれいであっても、所詮は泥沼から咲いた花なんだから、汚い花のはずだと思うか。
人を見るとき、根源的な分岐点はここにあると思っている。
場所はどこであれ、きれいに咲かせようとする花は、みんなが一緒なのにね。

こういう偏見の苦い経験があるから、人を色眼鏡では見ないように心がけている。
冒頭に戻れば、あたりまえの基準が結構怪しかったりするわけで、思い込みで人は判断できないよ。
posted by GIG at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | Bar & Human | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする